法事、法要、四十九日などの仏事の慣習をわかりやすく解説しています。
法事・法要・四十九日がよくわかる

仏教の宗派の違い

宗派はどこですか

私たち日本人は、お盆には田舎に帰省して墓参りをし、クリスマスにはプレゼント交換をし、お正月には神社に初詣をする。仏教、神道、キリスト教などさまざまな宗教を受け入れ、日常生活に取り入れています。普段は自分の宗派を意識することもなく暮らしています。
そのなかで、私たちが仏教と接するのは葬式と法事のときでしょう。参列しているだけでは細部を知ることができませんが、自分で葬式と法事を営んで、はじめて真剣に宗教と向き合うのではないでしょうか。最近は葬儀社や仏壇店から「宗派はどこですか」と聞かれて、あわててしまう方も多いのです。
仏教にはさまざまな宗派があります。宗派によって仏壇に安置する本尊も異なりますし、教義も異なりますし、お経もそれぞれなのです。
法事を営むにも、仏壇を購入するにも宗派がわからないとできません。自分の宗派を知っておく必要があるのです。

宗派調べは自分のルーツを調べるようなものです。両親が亡くなった場合、まずは父方の実家、あるいは親戚に聞きましょう。父方の実家に誰も親戚がいない場合は、お寺に聞くことになるかもしれません。
実家の宗派にこだわらず、自分が信じる宗派に決めることもできます。また、法事やお墓参りなどに便利に、と自分の家の近くの寺を菩提寺と決める人もいます。菩提寺とは、一家が代々信仰し、葬式や法事などを営むお寺のことです。
菩提寺を選ぶときは、宗派が納得できるお寺であることが大切です。菩提寺の宗派が自分の宗派となるのですから。

インドで生まれた仏教

インドで生まれた仏教は日本に500年中頃に伝わり、聖徳太子が天皇を補佐する摂政になってから、日本に仏教が広まったと言われています。聖徳太子は法隆寺を建立し、仏教を日本に定着させました。
奈良時代には仏教文化が開花しました。聖武天皇が国を守るために「諸国に国分寺・国分尼寺を建立せよ」との詔を出したことで、全国にお寺が建立されました。いまでも全国に「国分寺」の地名がその名残をとどめています。都では東大寺の大仏が建立されています。
平安時代になると、最澄と空海(のちの弘法大師)というふたりの偉大な仏教者があらわれ、最澄が開いた天台宗、空海が開いた真言宗が生まれています。
鎌倉時代には親鸞聖人や日蓮聖人など多くの宗祖があらわれ、いくつもの宗派が生まれました。現在、日本にさまざまな宗派があるのはこのためで、十三宗五十六派あるといわれています。そのなかで、おもな宗派を紹介しましょう。

比叡山にある延暦寺が総本山の天台宗

天台宗は延暦寺を総本山とする宗派です。延暦寺は古くから信仰の山として知られる比叡山にあります。宗祖は伝教大師、最澄といいます。
最澄は804年、唐に国家資格をもつ留学生として留学します。同じ船には国家資格のない僧侶として空海も乗っていたことに驚きます。
最澄は天台宗の道場がある天台山で修行をし、帰国します。帰国すると、時代は変わっていました。最澄を重用した桓武天皇は病に臥していたため、最澄は強力な後援者を失ったのです。
最澄は日本に天台宗を広めるため布教します。そして、比叡山に延暦寺を建てるために奔走しますが、生きている間には実現できませんでした。亡くなってから建立の許しがでたのです。のちに延暦寺が天台宗の総本山となりました。
その後、優秀な弟子たちの布教で発展し、天台宗の寺院には日光輪王寺、平泉の中尊寺、上野の寛永寺、長野の善光寺など由緒ある寺院があります。
諸仏諸尊はすべて本仏という考えから、本尊は釈迦如来、薬師如来、観音菩薩など多様ですが、一番多いのは阿弥陀如来です。
経典は法華経を根本として、阿弥陀経、大日経、梵網菩薩戒経なども経典とし、「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」と唱えます。

書の達人、空海が開いた真言宗

「弘法にも筆の誤り」とことわざにもなっているほどの筆の達人、弘法大師、空海が開いた宗派です。真言宗は真言密教とも言い、護摩壇で護摩木を焚くことで知られています。「即身成仏」を教えの根本としています。これは密教の修行をすれば、誰でもただちに仏になることができるという教えです。
804年、31歳のとき、空海は最澄と同じ船に乗って唐に行き、唐の恵果和尚に入門します。恵果和尚は1000人を超える弟子がいるなか、空海に会うなり、「私はあなたが来るのを待っていました。すぐに密教の奥義を教えましょう」と言ったそうです。
帰国後の空海は、最澄とまったく立場が逆転します。書の達人だった嵯峨天皇に重用されて、高野山に金剛峰寺を建立し、真言宗を開きます。空海は当時の天皇や貴族たちに支持されるだけではなく、土木事業を行うなど民衆のために働いたので、民衆からの人気も高い僧でした。
その後、真言宗は分化し、多くの派が生まれています。
本尊は大日如来、主な経典は大日経、金剛頂経です。「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えます。

念仏を唱えれば救われると説いた浄土宗

はじめて民衆の間で広まった宗教が浄土宗です。宗祖の法然上人は「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる、と説き、またたくまに民衆に受け入れられたのです。
法然上人は幼くして父を失ったため、叔父のもとに預けられ、仏教を学びました。その後、すでに一大勢力となっていた比叡山東塔西谷功徳院の皇円のもとで出家しました。仏道を求めて出家したのですが、当時の比叡山は僧侶が権力闘争に明け暮れていました。法然は真摯に仏道を求める僧侶が集う西塔の黒谷別所で慈眼房叡空に入門し、その後25年間、苦悩しながら仏道を求めつづけました。
1176年、43歳のとき、中国の善導大師の「一心に阿弥陀仏の名をたたえて念仏を唱えれば極楽往生できる」という教えに触れ、浄土宗を開宗します。
「念仏を唱えれば救われる」という教えは、またたく間に人々の間に広まりました。これが比叡山の天台宗から弾圧を受ける結果となり、流罪されます。
1年足らずで許されましたが、京都に戻ることを許されたのは79歳のときです。病床に伏し、80歳で生涯を閉じました。その場所が、現在総本山となっている華頂山知恩院でした。
法然没後、弟子たちによって広められた浄土宗の「念仏を唱えれば救われる」というわかりやすい教えは、民衆の心をとらえ、さらに広まっていきました。
本尊は、阿弥陀如来、経典は観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経で、唱える文句は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」です。

親鸞が開いた浄土真宗

どの宗派かは知らなくても、親鸞の名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。見真大師親鸞聖人が開いた宗派、浄土真宗は現在、巨大教団となっています。
親鸞は9歳で出家し、比叡山で20年間修行をしましたが、内面の悩みが解消されなかったため、山を下りました。京都六角堂に籠って95日目に啓示を得て、浄土宗を開いた法然上人の弟子となり、修行を積むことにしました。しかし、法然が流罪となったため、親鸞も越後に流罪となります。還俗(げんぞく)が条件でした。還俗とは僧から俗人に戻ることをいいます。以後、親鸞は僧の身分に戻ることはなく、「僧に非ず俗に非ず」という「非僧非俗」を貫きます。
越後で妻、恵信尼を娶り、子、信連を設けた親鸞は5年で流罪を許されると、妻子とともに常陸に行き、そこで主著である『教行信証』6巻を著します。この年を立教開宗の年としています。親鸞52歳のときです。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも、死後、浄土で仏になることができると説く「自力念仏」の浄土宗と違い、浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、必ず極楽浄土に行くことが約束される「他力念仏」なのです。故人はすでに極楽に生まれている、と考えるのです。
90歳で親鸞がこの世を去ると、浄土真宗は衰微していきますが、第八世蓮如によって再興します。その後は本願寺を本山として、巨大教団に発展します。
浄土真宗はその後、本願寺派、大谷派、髙田派などに分かれています。そのなかでも本願寺派と大谷派が大きく、本願寺派の本山が西本願寺であることから「お西」と呼ばれ、大谷派の本山が東本願寺であることから「お東」と呼ばれています。
本尊は、阿弥陀如来、経典は観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経で、唱える文句は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」です。

「禅問答」を行う臨済宗

禅宗といえば、すぐに「座禅」を思い浮かべるほど、日本で定着しています。
禅宗には大きく臨済宗と曹洞宗の二大宗派があり、共通している部分と異なる部分があります。共通の部分は座禅で悟りを開くことと、師から弟子へと教えが伝わることを重要視している点です。
異なる点は「座禅」の仕方などが違います。禅を行うとき、臨済宗は通路に向かって座り、「看話(かんな)禅(ぜん)」といって、師匠によって与えられた問題「公案」に弟子は身体全体で取り組み、悟りを開くというものです。
「公案」とは「禅問答」のことで、いまではむずかしい問答、訳のわからない問答といった意味に使われていますが、悟りにいたる重要な課題として「公案」を使っています。
禅宗はインドの達磨によって520年、中国に伝えられました。ダルマは開運の縁起物として知られていますが、それは達磨が中国河南省少林寺で面壁9年の修行を行ったところからきています。壁に向かって9年間座禅を組んだため、足が腐って無くなってしまったため、ダルマには足がないのです。
達磨から11代目の臨済義玄が臨済宗を開きました。宋に留学した栄西禅師が1204年、京都に建仁寺を建立してから、日本に臨済宗が伝わります。しかし、京都は天台宗が力を持っていたので、なかなか広まりませんでした。
禅宗を広めたのは、中国から来た僧が1248年、鎌倉幕府の執権、北条時頼の全面的な支援を受けてからです。鎌倉に建長寺を建てて、禅堂での日常規範を定め、禅寺の基盤をつくりました。
1279年、北条時宗に招かれてきた中国の僧は、蒙古との戦いで命を落とした武士の追善供養のために円覚寺を建てました。次々と禅宗のお寺が建てられた当時の北鎌倉はまるで中国街のようだったそうです。建長寺と円覚寺は現在にいたるまで、禅の道場として有名です。
臨済宗は師から弟子へと伝えていくことを重んじますので、それぞれの寺院が独自の流派をもっています。妙心寺(京都市)、建長寺(鎌倉市)、円覚寺(鎌倉市)、南禅寺(京都市)などが臨済宗として有名な寺院です。
本尊は釈迦如来です。
特定の経典は定めていませんが、教化には金剛般若経、観音経、般若心経、大悲呪、座禅和讃などを用いています。
「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と唱えます。

ひたすら座禅することを説く曹洞宗

臨済宗と曹洞宗の一番の違いは座禅の仕方です。曹洞宗では壁に向かって座って、座禅をします。「黙照禅(もくしょうぜん)」といって、ただひたすら座禅に徹する、つまり「只管打坐(しかんたざ)」することをそのまま悟りとする教えです。
この教えを広めたのが高祖・承陽大師道元です。8歳で出家後、12歳で比叡山に入り、天台座主、公円のもとで出家します。その後、禅宗の建仁寺で、栄西の高弟、明全に師事し、23歳のとき、明全とともに宋に留学するのです。
中国で臨済宗が上流社会と交流するのに疑問を感じた道元は、ただひたすら座禅に徹する曹洞禅を学んで5年後に、明全の遺骨とともに帰国します。
俗塵を嫌った道元は、雪深い福井に永平寺を建てます。一時、北条時頼の招きで鎌倉に移りますが、すぐに永平寺に戻って隠棲し、出家至上主義をつらぬいて、54歳の生涯を閉じました。
道元から4代目にあたる太祖・常済大師瑩山(けいざん)がその後、大衆教化につとめ、現在、日本最大の寺院数を誇る巨大教団となっています。
曹洞宗では道元を宗派の父、瑩山を母にたとえ、両祖を宗祖と仰いでいます。本山は永平寺と総持寺(横浜市)です。
本尊は釈迦如来です。
経典として用いるのは、法華経、金剛経、般若心経などと、道元が著した正法眼蔵です。
「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と唱えます。

「法華経」を大事にする日蓮宗

本尊に向かって「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば、悟りがおのずから得られると説く日蓮宗は、宗祖・日蓮聖人の名を宗派名にしている唯一の教団です。日蓮は12歳で天台宗清澄寺に入り、16歳で出家します。21歳から比叡山、園城寺、高野山などで11年間、修行したあと、『法華経』こそ、救いのよりどころとなる唯一の経典であると確信し、1253年、立教を宣言します。
しかし、「法華経を広めようとする行者は難にあう」と法華経に書かれている予言通り、「松葉谷の法難」「小松原の法難」など数多くの難にあいました。「伊豆の法難」では「法華経信仰によって国土の安穏をはからなければならない」と説いた「立正安国論」を当時の執権北条時頼に提出すると、鎌倉幕府に危険視され、伊豆に流罪されます。
「龍の口の法難」では、佐渡に流罪される途上、暗殺されそうになりました。しかし、稲妻によって奇跡的に難を逃れたのです。
1274年、ようやく許された日蓮は、山梨県身延山に隠棲して弟子の育成にあたり、60歳の生涯を終えました。身延山に建立された久遠寺が総本山となっています。
本尊は曼荼羅です。
経典は法華経で、唱える文句は「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」です。

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